あれから、三日後。
 覚は、僕の前に積極的に姿を現すことはなくなっていた。
 あの一件で、さすがの彼も懲りたのだろう。教室で見かけても、たまに視線が合っても、僕のそばには近づこうとしない。
 ようやく僕は、誰にも邪魔されない自由な時間を手に入れたというわけだ。

 強い日差しが降り注ぐ午後、授業が早めに終わる日、僕は一人木陰に座り、手元に広がる世界に夢中になっていた。
 最後のページをめくり終え読後の余韻に浸ったあと本を閉じ、横に静かにおく。
 よし、と心の中で一息つき、ここ三日間の充実感を確かめた。

 積んでいた本もすべて読み終えた。
 済ませたい用事も済んだ。
 学校でも何でも好きなときに自由に行動できる。
 当然、トイレにだってのんびり一人で行ける。
 なぜだろう、ストレスがないせいなのか、心なしか肌の調子もよい気がする。
(うん、――充実!)
 手を頭の上で組んで思い切り伸びをすると、爽やかな風が肌を撫でていく。
 ひやりとして心地が良かった。

――かさかさ。

 同時に、右手の少し離れた位置にある背の高い草たちがこすれた音をたてる。
 風に揺られただけだと思って最初は気にも止めていなかった、――が。

――かさかさかさ。

 それにしては不自然だ。
 風は吹いたりやんだり強弱を繰り返しているが、それとは別に不定期な乾いた音がする。
 まるで意思を持った生き物が草下でみじろぎをするような。
 生い茂る草たちは密度も高く、そこに何があるのかは釈然としなかったが、確かに“何か”が潜んでいる気配があった。

 そのとき、僕の脳裏に浮かんだ映像は、たった一つしかなかった。

 僕から隠れるようにしてこそこそと草むらの中に隠れ、こちら側を見つめる覚。
 目尻にはうっすら涙が溜まっていて、眉毛は完璧なまでにハの字を描いている。ひどく情けない表情だ。
 瞬きを繰り返し、口を尖らせながら、彼は一人でぶつぶつと何かをつぶやいている。

   ――ぐすん。
   瞬、瞬。
   俺が悪かったから、許してくれよ。

 それまで毎日、当たり前のように顔を合わせていたから、三日間直視していないだけなのに、それは随分懐かしい記憶のような気がした。

――くす。
 思い描いていたら、知らぬ間に笑みが漏れていた。

 あのときは、たくさんの不慣れが重なってしまった。
 改めて振り返ると、僕も頭に血が上ってむきになりすぎていたように思う。
 久しぶりに思い出せば、彼の度の過ぎたスキンシップも、なぜだか愛しく感じられるような気がするから不思議だ。

(覚も、さすがに少しは反省してくれたかな?)
(まだ一週間経っていないけど、結局ここに来ちゃうなんて、覚はしょうがないなあ)
(でもこのままじゃ、覚が可哀想だし)

 僕は立ち上がると、未だかさかさと音たてる草むらへと近づき、上背がある葦の葉を押しのけながら言った。
「覚。もう、怒ってないから……………………、あ」
「あ」
 僕と、向こうが間の抜けた声を上げたのは、ほぼ同時だった。
「ご、ごめんなさい!!」
 すぐに目を反らしてその場を立ち去る。
 羞恥心からか、胸の鼓動と顔の温度が無意識にあがって行く。

 てっきり覚とばかり思い込んでいた、そこにいた人間は覚ではなかった。
 同じ学校に通う、おそらくは一つ年上の先輩たちだろう。
 こういう場面に出くわしたら、なるべく早く離れるのがこの町の礼儀だ。

 ひたすらに大股で歩いていると、不意に、背中がやけに軽いことに気がついた。
 木の下に本とかばんを置き去りにして、忘れて来てしまったのだ。
 僕はしぶしぶ後を引き返すことにした。



***



 さっきまでいた木陰は、変わらず眩しい午後の晴天の中にあった。
 本とかばんもそのままの状態で残されている。
 ほっとして、僕はもう一度太い木の幹にもたれるようにすとんと腰を下ろした。
 背中を預けたまま、まっすぐ前を見る。

 群青の空。黄緑の草原、新緑の木。それを揺らす風の音。
 数分前と何一つとして変わらない、欠けることのない景色。
 その中にあって、僕だけが、さっきまでとどこか違ってしまっていた。
 胸の奥に足りないものがある。それが気になって、落ち着かないのだ。

 何ともなしに、木の後ろを振り向いてみる。
 今度は立ち上がって移動し、小高い場所から下を見下ろしてみる。
――誰もいない。

 乱暴にかばんをつかんで立ち上がり、さっきとは違う方向の茂みの中を探してみる。
――いない。
 制服にくっつき虫がしがみついてきたが構わず、そのまま木立の中をのぞき見てみる。
――いない。

「――覚?」
 名前を呼んでみる。
 返事はなかった。
 僕のそばに、いま彼はいない。

 いなくて当然だ。僕が近づくなって言ったんだから。覚は、僕の言いつけを従順に守っているだけなんだ。

 自分に言い聞かせながら、服についた汚れを叩き落とす。
 もう、家に帰ろう。早く帰って眠ってしまおう。
 僕は歩き出す。木立から離れると広がるのは草原で、視界を遮るものは何もない。
 真夏の太陽はじりじりと肌を焦がすけれど、その内側まで温めることはできなかった。

 強い風が僕の周りを駆け抜けて行く。
 周囲のものが一斉にたなびく。ざわざわとひどく乾いた音がする。
  
   瞬。なあ、瞬ってば!
   今日は、何して遊ぶ?

 ふいに、風が耳元でいたずらに彼の声を真似てささやいた。
 ひどい嫌がらせだと思った。
 振り返っても辺りを探しても、彼の姿はどこにもないのに。
 さっきまでは確かに心地よかったはずの冷風は、いまはただ不快に冷たいだけだ。

 僕はいま、とても自由で、――けれど孤独だ。
 一人の時間は大切だけど、独りぼっちは嫌だなんて、ずいぶん自分本意な考えだと思う。
 けれど、そんなわがままが自分の中にあることを知ったから、前よりも少し優しくなれるような気がした。

 いよいよ堪えきれなくなって、僕は走り出していた。