きみがいない (4/4) | 縞々
駆け込んだのは放課後の学校だった。
普段、生徒たちは一日の授業が終わると、蜘蛛の子を散らすように一斉に散り散りになっていく。
廊下を歩いていても、辺りはしんとしていて物音はほとんどない。
全ての授業を終え、役割を果たしたあとの学校は静かだった。
教室の前までたどり着くと同時に、僕はそっと扉の影に身を隠した。
中に、人の気配があったからだ。
木製の引き戸に添うようにして息を潜めていると、声が聞こえてきた。
「覚、帰らないの?」
「あー、守か。お前こそどうしたんだよ、こんな時間まで」
「僕はみんなのプリントを集めて職員室まで持っていくように言われていたから、それを済ませて教室に帰ってきたんだけど。覚がこんな時間まで教室に残ってるなんて、珍しいなって思って。いつも一番に帰っちゃうからさ」
「いいんだよ。どーせ、帰ったってやることねえし」
教室からは、守と覚、二人の声がする。
見つからないように一度だけ、こっそり中を盗み見て、すぐ姿勢を戻す。
覚は自分の席に座って、机にだらりと腹から身体を預けるような格好で、両手を前に伸ばしていた。
そこに、守が歩み寄って行く。
室内は二人だけで、他の生徒は既に帰宅しているようだ。
「最近は、瞬と一緒にいないんだね」
「あ〜、まあなあ」
「どうかしたの?」
「一週間、そばに寄るなと言われている」
「そ、それは、可哀想に……。喧嘩でもしたの?」
「そんなもん、かなあ。よくよく考えてみれば、我慢できない俺が一方的に悪いんだけど。それは、自分でもよくわかってるんだけどさ。でも、俺は瞬のことが好きだから、一分でも一秒でも長く一緒にいたいって思うけど、瞬はそう思ってはくれないんだ」
「そうでも、ないのかもよ」
「そーなの。俺はずっと見てるからわかるんだよ。…………けど、俺は別にそれでもいいんだ。だってどうしたって俺は瞬のことが好きだし、それはどれだけ頑張っても変えられない。だから、単純に俺が我慢すればいいだけの話なんだよ。これ以上嫌われたくない。でもきっと、一緒にいたら絶対、もっといたいって思っちゃうから、めんどうなんだよなあ……」
覚は淡々と告げる。
僕はそれを扉の影で黙って聞いていた。
三日前、僕は覚のことを心の中で何と罵ったか――それを思い返していた。
“どうして、わかってくれないんだろう?”
心底そう思って、彼の態度に飽き飽きしていた。
でも、違っていた。
全然わかっていなかったのは、僕の方だったんだ。
後に続く言葉なく、教室内は一瞬静寂に包まれたが、その沈黙を破ったのは守だった。
「…………わかるよ、そういうの」
「ん〜、あ? 守が?」
「自分の好意が、相手の迷惑になるかもしれないって考えると、怖い。でも、自分に嘘をつくのは嫌だし、結局は想いを偽ることはできないから、やっぱり正直な気持ちで行動するしかないよね」
「へーえ。2年間一緒にいるけど、俺、初めて守の意見に賛同できた気がする」
「うわあ、ひっどいなあ」
守が茶化すように言ったあと、教室にはしばらくの間、ふたりの笑い声がこだましていた。
がらりと教室の引き戸を勢いよくあけると、二人は驚いて入り口に立つ僕を見た。
「あ、瞬!」
最初に声を出したのは守だった。
「へ?? うわっ」
覚はびくりと肩をふるわせて間抜けな声を出したあと、ばつが悪そうに僕から目をそらしている。
「瞬、どうかしたの?」
「いや。ちょっと忘れもの、しただけだよ」
事情を察して気を使っているのだろう。守が、僕に声をかける。
「守は、覚に用事?」
「ううん。たまたま帰る前に一緒になったからしゃべってただけだよ」
「そう。じゃあ、ちょっと借りてく」
未だ目を合わせようとしない覚の腕を掴み、そのまま乱暴に引っ張る。
「ええ!? ちょっと!!」
ぐらりと体勢を崩しながら立ち上がる。
慌てふためく覚をよそに、僕は無言のまま彼をずるずると教室の出口まで連行した。
「守、また明日!」
「また明日〜!」
振り向いて声をかける。
ひらひらと手を振り見送る優しい笑顔の守を残して、僕たちは教室を後にした。
学校を出てからも、しばらく僕らの構図は変わらなかった。
何も言わずに彼の手を引く僕と、ただ後を着いてくるしかない覚。
「どうしたんだよ? 瞬」
「なんで? やっぱり、まだ怒ってる??」
「俺、また何か変なことした?」
答えない僕に、覚はしどろもどろだ。
いくつかの質問を投げかけ空振りに終わった覚は、少しの間押し黙ったあと、最後に独り言のようにぽつりと漏らした。
「でも、さ。あれからまだ、3日しか経ってないんだけど」
(まだ、3日しか……)
その言葉を聞いて、僕はぴたりと足を止めた。ゆっくり向き直り、まっすぐに覚の目を見つめる。
「覚。僕は、」
「はい!」
突然言葉を発した僕に驚いた覚は、学校で先生に呼ばれたときのような威勢のいい返事をした。背筋はぴんと伸びて、手は指先までまっすぐだ。
「親しき仲にも礼儀ありで、お手洗いくらい一人で好きなときに行きたいし、自分のペースを崩されたくないときだってある」
「う、うん」
「それを、考えて欲しかったんだ。一緒にいるのは確かに楽しいけど、それだけじゃだめだろ? 自分のことばかりじゃなくて、相手のことを考えて、思いやる気持ちが必要だと僕は思う」
言葉にしながら改めて思い知る。それは覚に、そして何より僕に足りていなかったものだ。
「わかった?」
「はい」
「……本当に?」
「本当だよ!」
訝しんだ僕の質問に、食い下がるように覚は言った。
「じゃあ、許すよ」
そう言っても、覚の警戒はすぐには解けないようだった。よっぽど、今回のことが堪えたと見える。こわばった表情のまま、念を押すように聞き返す。
「瞬、もう怒ってない?」
「うん」
「本当に?」
「だから、怒ってないって!」
「っ……よかったあ」
はあ、と覚は大きく息を吐き出した。ふっ、と周囲の空気まで緊張が緩んだように感じた。
「僕のほうこそ、一方的に怒って悪かった。ごめん。でも、ホントにちゃんと反省したのか?」
「したよ。もう懲りた。三日間長過ぎて、寂しくて死ぬかと思った」
彼はそう言うと、目尻の涙を拭う仕草を見せた。
「おおげさだなあ」
僕は笑う。
でも覚はきっと、寂しくて死んでしまうかもしれなくて、でも今日僕が「許す」と言わなければ、一週間くよくよしながらそれでも孤独に耐え抜いてしまったと思う。
逆に、耐えきれなかったのは。
「おおげさじゃなくて本当だよ。俺は、瞬がいないとだめなんだ」
ぎゅっと、力いっぱい抱きしめられた。弱々しい泣き言とは、まるで正反対の強い力で。久しぶりだから覚も加減の仕方を忘れたのか、腕を回された背中が痛いくらいだ。
「瞬は? 瞬は俺と会わなくて、寂しいって思ってくれた?」
耳元で、覚の囁く声がする。
吐き出す息は相変わらず熱くて、その温度はじんわりと身体の奥まで浸透する。
そのうだるような暑苦しさを、心底愛おしいと僕は思った。
「うーん。まあ、ちょっとだけ、ね」