きみがいない (2/4) | 縞々
その日から、僕と覚、二人の“恋人生活”が始まった。
起床して身支度を整えていると、町の中心部から離れたところにある僕の家まで覚が迎えに来て、一日が始まりを告げる。
「瞬、おはよう。昨日は、よく眠れた?」
「おはよう。おかげさまで僕はぐっすり、よく眠れたよ。覚は?」
何気ない挨拶を交わした後は、学校までの道のりをどうでもいい話をしながら横に並んで進む。陸路で水路でも同様だ。
学校では、授業中の席は離れたり近くなったりまちまちだったが、合間を見繕っては講義内容について談笑を交わしたりする。
昼になれば向かい合ってお弁当を食べる。
教室移動があれば一緒に廊下を歩く。
それは今までと同じような光景に見えて、やはり少しずつ違っていた。
単純に言ってしまえば距離が違うのだ。
もともと覚は、人とあまり距離を置かないタイプで、僕に対しても例外ではなくそうではあったけれど、その少しが大きな意味を持つこともある。
教室移動の最中、隣り合って歩いていた覚の手が一瞬触れたと思ったら、そのまま指を絡ませてぎゅっと握られた。
「こういうのも、いいだろ?」
こっちを向いて覚が笑う。
胸の鼓動がわずかに早くなる。
頷きながら、僕は覚の手を握る力をほんの少しだけ強くした。
(確かに、結構、悪くないのかも……)
――少なくとも、最初の一週間は確かにそう思っていたはずなのだ。
***
「瞬、おはよう。昨日は、よく眠れた?」
「おはよう。まあ、僕はそれなりに。覚は?」
そんな早朝のやりとりを繰り返すこと、早三か月。
時間は飛ぶように過ぎ去っていく。いつの間にか季節は真夏を迎えていた。
「瞬、今日さ、弁当作ってきたんだけど、食べる?」
「じゃあ、頂こうかな」
「瞬、瞬!! 一緒に帰ろう」
「うん、いいよ」
「瞬、瞬!! 一緒に遊ぼう」
「ああ、わかった」
「瞬、首飾りしよう。ほらこれ! 当然、俺もお揃いだよ」
「あ、ああ」
「瞬。もう帰っちゃうのか? まだ日没までには時間があるし、ぎりぎりまでいいだろ?」
「いや、でも……」
「瞬! それで、明日の予定なんだけどさ!!」
「…………」
もう一度言う。
僕は覚のことは好きだし、彼と一緒にいるのは楽しい。
だがしかし、モノには限度ってものがあるんじゃないのか?
朝から夕方まで、それこそ家にいる以外のすべの時間、四六時中べったりつきまとうように一緒にいられると、一人で済ませたいと思っていることが、何もできないじゃないか!
しかも今年は猛暑で、ただでさえ高すぎる気温に毎日苦しめられているのに、冬でもホッカイロみたいな体温の覚にまとわりつかれるのは、暑苦しいことこの上ない。
(僕は、自分の時間は大事にしたいタイプなんだけど)
(たとえば読書は一人で静かな場所でしたいし)
(考え事をする時間も欲しいし)
(でも、余計なことを言って覚を傷つけるのは可哀想だなあ)
ぼんやりと考え事をしていると、授業終了の鐘が鳴る。
いけない、と思う。集中できないまま授業が終わってしまった。
まいったなあと、思わず天井を見上げてしまう。全く、覚といると調子が狂う。
休憩時間に手と顔を洗って、ついでに頭も冷やしてこよう。
軽く頭を振りながら立ち上がる。
最近は、お手洗いに行くときくらいが、学校で一人になって息抜きできる唯一の時間になっていた。
教室から廊下へと歩み出たところで、誰かに呼び止められた。
「瞬! どこ行くんだよ?」
振り向くまでもなく分かる。覚だった。
彼は僕が教室から出て行く姿を目ざとく見つけて、慌てて駆け出してきたようだ。
「ああ、トイレだよ。すぐ戻ってくるから、覚は待ってて」
「いやだ!」
「そんなこと言うなよ。あんなところにまで一緒に行く必要なんか、ないだろう?」
「ある! 俺も一緒に行く!!」
胸を張り、腹から出てくるような大きな声で覚は答えた。何一つ、悪びれたところのない態度で。
その自信満々の彼の返答を聞いたとき、
ぷちっ
と、自分の中で、何かが切れる音がした。
「……さとる」
「ん?」
「これまではあえて言うまいと思ってきたけど……ちょっと、いくらなんでも行き過ぎなんじゃないか?」
「なにが?」
何もわからないと言った表情で、覚はひょいと首を横に傾げる。
「僕は、覚と一緒の時間も大切だけど、一人の時間も大事にしたいんだ。覚だって、僕と一緒にいること以外で、やらなきゃいけないことだってあるだろう?」
「ない! というか、瞬より大事なものなんて俺にはない!」
「そういう意味で言ってるんじゃない! 恋愛に浮かれるのもいいけど、他にも大切なことはあるだろう?」
「ない!」
「読みたい本だってたくさんたまってるんじゃ」
「いや、ない」
「静かに考えごとしたいときだって」
「ない!!」
「こう暑いと、たまには一人涼しく」
「だから、ないってば!」
何を言っても、どう説得しようとしても、覚は「ない」の一点張りだ。
このままじゃ埒があかない。
けれど、僕だってこの沸騰気味の頭で、仲良く一緒にトイレに行きましょう、と穏やかに言う気分には、どうしてもなれなかった。
「じゃあせめて……せめて、トイレにくらい一人で静かに行かせてくれ!」
「いやだ!!」
渾身の力を込めた叫びもあっけなく否定され、僕の頭はいよいよかっとなった。
どうして、覚はこんなにも自分勝手なのだろう。
どうして、覚は僕のことをちっともわかってくれないんだろう。
「だって、トイレで変な男に手え出されたら嫌だし、そうしたら俺が瞬を守らなきゃ」
「いい加減に……」
一度、大きく息を吸い込む。
「いい加減にしてくれ!!」
未だに未練がましくぶつぶつと言い訳を続けている覚のお経のような言葉を、僕は大声で遮った。
「……へ?」
「君がそういうつもりなら、こっちにも考えがある」
怒気に驚いたのか、ようやく覚は今この状況が普段と違うことを察したようだった。
「え、なんで? 俺、なんか悪いことした? その……」
「それがわかってないのが問題なんだよ。しょうがない、こうしよう。今日から一週間、僕の3メートル以内に近寄らないでくれ。当然、会話も禁止。完全に別行動にしよう」
「ええ!? なんで、そうなるんだよ?」
「ちょっと1回、一人になって頭を冷やして考えてくれよ、覚。頼むから」
そこまで言って、覚から視線を外してくるりと踵を返す。
「じゃあな」
「ええ!? なんで? なんで瞬おこってんの?? ……ぐすん」
涙混じりの情けない声を出す覚を廊下に残して、僕は背後から受ける視線を振り切るように淡々とひとり手洗い場に向かった。
***
久しぶりの、一人きりの帰り道。
後方に追跡者がいないことを確認しながら、静かに家路を辿った。
やれやれ。
ちょっときつく言い過ぎたかもしれないけど、一度、一人になって冷静に考えてもらったほうが、覚にとってもいいだろう。
覚は、もともとわがままな子ではないから、きっと恋人という甘い響きに惑わされて、頭が正常に回転してないだけなんだ。きっと、そうだ。
冷静になれば、自分のことも、僕のことも、きちんと考えられるようになるはず……。
(――ん?)
無意識に前方に移した視線が捉えたのは、歩道のそでに植わっている緑豊かな木だった。
ぼ〜っと見ているだけでは気付かないが、注視すると、太い幹の背後に何者が潜んでいるのがわかる。
その背格好、木の横からちらりとのぞく茶色の癖っ毛から、一瞬で誰なのか察しがついてしまった。
「……さとる」
すたすたと何事もなかったように木の隣まで歩いて立ち止まり、呆れたように名前を呼ぶと、人影はびくりと肩を震わせて、おずおずとこちらに顔を出した。
案の定だ。
見慣れすぎた顔に向かって、冷たい声色に絶対零度の視線を付けて、送りかえしてやった。
「ばれてるから」
「――ひ、」
覚は、文字では形容し難い奇妙な叫び声だけを残して、脱兎のごとくこの場から走り去って行く。
立ち去る背中を見つめながら、一体、彼が“冷静になって”くれるのはいつになることやらと、僕はため息を漏らした。
(……誰かと付き合うって、いろいろ、大変なんだなあ)