鏡の中の恋人 (9/11) | ねこむー
瞬に言われた、たった一言のごめんという言葉と、ずっと愛していたという言葉。
それはありふれた言葉なのに、体中を巡って翼が生えたように、体と言わず、僕の全てを軽くした。
――それは先人の言葉を借りると、まるで“魔法”のようだった。
“魔法”なんて言葉を知る手段は、今や限られているけれども、知っている人からすれば、呪力がある時代に魔法だなんて、馬鹿馬鹿しいって思うかもしれない。
けれど魔法は呪力と比べられないほど素敵な意味合いを秘め、その効力を発揮する言葉だと僕は今知った。
「謝らないでくれよ、瞬。僕は…、」
そう言った途端、僕は口から言葉の発し方を忘れたように声が出せなくなり、頬を伝いぱたぱたと地面に落ちた水滴の染みを見て、自覚もなく目から涙が溢れだしていることに気づく。
昔からあることないこと喋るのが得意で、どんな時でも口が回ることだけが取り柄だと、早季に「これは褒めてるのよ」と自慢げに言われたことを思い出した。
しかし、今は瞬にずっと言いたかった言葉が、堰を切ったように次々と溢れ出し、無音で口から飛び出しそして宙を舞っては消えていく。
別に瞬に謝って欲しかったわけでも、愛の言葉を言って欲しかったわけでもない。
でも、心の中のなにかを押さえていた蓋が取れたかのように、様々な生身の感情がとめどなく溢れ出していた。
「…泣くの、ずっと我慢してたよね、覚」
いつしか、瞬の重ねられた手は、強く僕の手を握っていた。
「僕が居なくなって、覚が一番辛かったはずなのに、みんなを優先して、支えて、僕の分まで、色々役割を背負わせてしまったようだね」
瞬が、手を引っ張って、僕を優しく抱きしめてくれた。
ふわりと、懐かしい瞬の頭髪の匂いと、水の匂いが混じった、不思議な、でもとても落ち着く香りに包まれていた。
「…泣いていいよ、覚。僕の前では、もう、何も我慢しなくてだいじょうぶだから…」
瞬の優しい言葉が、薬のように体中に沁み渡っていく。
そのうち、とうとう、声を我慢できなくなって、僕は子供みたいに、泣き喚いた。
それでも頭の中では未だに、瞬になんて言おうか、どれから話せばいいのか、僕は何を伝えたいのか、とめどなく考えていた。
でも、そんなことさえ、頭で整理できずに、言葉が僕の中で水分となって、口の代わりに目から溢れ出して止まらない。
――自分の泣き声だけが、辺りにこだましていた。
その間、瞬はずっと、きつく、暖かく僕を抱きしめてくれていた。
今まで、どんなに辛く悲しいことがあっても、泣くことを我慢した自覚は、一度もなかったが、無意識に、泣くに泣けない状況を自分で作り出していたのかもしれない。
…瞬はやっぱり全部分かっていた。
全部、見抜いていた。
今までずっと一緒に居ることの多かった早季でさえ、僕が一度も泣いていないことには、気づいていなかっただろう。
――暫くして、瞬の腕の力がふっと抜けて、お互いの顔を見る。
「…ふふ、覚、目が真っ赤になっちゃったね」
そう言って笑う瞬の目も十分潤んで赤かった。
…瞬が、生きている証拠だ。
「…瞬、ありがとう」
ふっと目尻を緩めて首を少し振る仕草が、とても愛らしかった。
「瞬、僕も君のことをずっと、愛していたよ」
「…知ってるよ」
くすくすと瞬は口に手を当て、笑う。
瞬の、全てを見透かしているかのような綺麗で優しい翡翠色の瞳と、ずっと恋焦がれて止まなかったあの笑顔を見て、僕は、僕の好きになった人は、やっぱり生涯でただ一人だけだったと、そう思った。
「…そして、これからも、ずっと、愛している」
「うん、僕も」
キスを、した。
二人の吐息だけが、この深い夜に浸みていく。
――そうして、僕たちは、抱きしめて伝わる体温をお互い確かめ合って、もう一度恋に落ちた…