鏡の中の恋人 (8/11) | ねこむー
――次に僕が目を開けた時、誰かの長い睫毛がぼんやりと映った。
そして、唇に柔らかな感触と温もりを感じた。
あまりにも気分が良かったため、やっと、天国に逝けたんだと、そう思ったものだった。
…右頬に鋭い痛みを味わうまでは。
「……覚っ……覚………、お願い…、覚…」
パンっという頬を叩く乾いた音と、今にも消えそうな、潤んだ声が耳に入る。
すると、意識が段々とハッキリしてきて、ふと息をしていないことに気づき、苦しさのあまり、空気を取り入れようと肺を思いっきり動かした。
「………っ!ゴホッ……っはあ…!」
「…!…覚っ」
僕は思いっきり水を吸い込んでしまったようで、しばらく水を吐き出そうと咳き込んでいた。
体中に血が行き渡り、全ての感覚が戻ってきた。
ふと全身が濡れていることに気づくと、途端に不快感が押し寄せた。
「…っはあ…、……ここ、は…」
体を動かせない代わりに目だけを動かしてぐるっと辺りを見渡した。
見えたのは、今にも星が落ちてきそうなくらいの満天の星空と、大きな満月だった。
それだけだったら本当に天国に来たのかもしれないとも思ったのだが、視界の端にさっきの湖がちらりと見えた。
湖は、さっきとなんら変わらず、殺風景の中心で、水がゆらゆらと揺らめいていた。
ふと心配そうに、星空をそのまま映したような瞳が覗き込んでいることに気づく。
すると、頬とは言わず、顔中に、雫が滴り落ちてきた。
「…覚……覚…、良かった…本当に……」
まるで瞳から本当の翡翠がこぼれ出てくるんじゃないかと思うくらい、綺麗なその瞳いっぱいに涙を溜めて輝いていた。
「……瞬、きみ、は…、」
やっと声が出せるようになり、瞬に話しかけた。
「っんの……馬鹿っ!」
突然の罵声が耳をつんざく。
あまりにもびっくりしてもう一度息が止まるかと思った。
瞬は一言そう言うと、途端に安心したように、横になっている僕の胸の上で泣き崩れた。
僕は手を伸ばし、頭を撫で、瞬の手を握った。
温かい感触が伝わる。
…どうやら、僕の無謀な計画は、成功に終わったようだった。
まさか成功するとは、夢にも思っていなかったので、驚きと嬉しさが一気に押し寄せてくる。
もう、無機質の鏡の感触ではなく、触れれば温もりが返ってくる久々の感覚に、思わず嬉し涙が出そうになったが、ぐっと堪え、上体を起こして、僕の上で泣いてる瞬を抱き寄せた。
「瞬…!」
お互いに温もりを感じ取ろうと、暫く抱きしめあったままだったが、僕は抱きしめている華奢な肩が震えているのを感じ、全身水浸しになっていることを思い出す。
「瞬、寒いだろ。服、今すぐ乾かすから」
そう言って、とりあえず側にあった枯れ木を呪力で寄せ集めたき火を作る。
そして服は脱がずにそのまま衣類が吸い込んだ水分を蒸発させるように、呪力を使って乾かした。
僕は瞬に改めて向き直り、まじまじと頭からつま先まで、その体を見た。
「瞬、どうやって、出てこれたんだ?」
泣きやんだかと思えば、ずっと下を向いたままだった瞬が、ようやく顔をあげた。
「……君はやっぱり、大馬鹿者だ」
てっきりまたさっきの罵声の続きを食らうだろうと思っていた僕は、思わぬ瞬の笑顔に戸惑いを隠せないでいた。
「…覚、ありがとう…そして、」
スローモーションのように瞬の唇が動くのを、僕は見つめていた。
「――今まで、ごめん…」
予期していなかった言葉に、一瞬固まる。
「…覚、僕はずっと……君に謝りたかった…」
真剣な瞬の瞳が、真っ直ぐ僕を捕えて離さない。
「君が、死んでしまうかもしれないと思ったら、急にあれこれ、言いたかった言葉が次々に浮かんで…、ああ、まだこんなにも君に伝えたいことがあったんだって、気づかされた」
月明かりに照らされて、瞬のまだ乾ききっていない髪から滴り落ちてくる水滴がキラリと輝いた。
「…君を、助けたくて、僕の気持ちをまだ伝えたくて、その一心で、必死に手を伸ばした。そしたら、湖がまるで僕に呼応するかのように、温かく包み込んで、誰かが、伸ばした手を掴んで鏡から引っ張ってくれたんだ…。その手は、とても、懐かしい感じがした」
俯き胸のあたりを押さえて、愛おしむように瞬が微笑む。
「気づいたら、君と一緒に、陸に上がっていた。…だけど、君が息をしてなくて、焦ったよ」
困ったように、泣きそうになりながら瞬が微笑む。
「…湖の中でね、少し、昔の記憶が蘇ってきたんだ」
月を背に話す瞬が、とても幻想的で、僕は相槌を入れるのも忘れていた。
「幼いころから君は、常に、僕の一番近くにいてくれた。変に距離をとることはなくて、常に僕と張り合ってくれていたね。そんな君との思い出の全てが、輝きに満ち溢れていたよ。……でも、」
楽しそうに語る瞬の瞳が、突然曇りだす。
「…僕の身勝手で、あんな風にしか別れを告げられなかった…君には、本当に辛い思いをさせてしまったね…僕には弁解する資格もないのだけれど、あの頃、僕の心はとても未熟だった…そうやって君を、突き離すことでしか、自分を守れなかった」
瞬の言葉で、当時のことを鮮明に思い出し、それだけで胸が張り裂けそうになった。
「…だけど、僕の肉体が滅んで、僕を覚えてくれている人の、心の中に住みついて、永遠と思える長い時間の中で、あの時、僕は必要以上に、傷つけなくても良かった人を傷つけてしまったと、とても後悔をした。…それは同時に僕への罰だと思った。たった一言、君に、謝る機会が欲しかったんだ。僕は、君にあんなに酷いことを言ったのに、君は、毎日…そして何年も僕のことを思い出してくれては、愛おしく思ってくれていた。そんな君の中で、僕はそのことをずっと、悔やみながら、生きてきた」
「…泣かないで、瞬」
ぽろぽろと、綺麗な雫が乾かしたばかりの服に染みをつくっていった。
「…でも、君に奇跡ともいえる形で、再び会うことができた。…それなのに、僕はまた……」
瞬がふるふると、首を左右に振る。
「僕は、とっても、臆病なんだ…。君が変わらず僕と接してくれたから、またそれに甘えてしまった…、君に、あの日のことをまた、思い出させたらなんて思うと…」
言葉に詰まった瞬を見て、そっと頬に手を伸ばして撫でた。
「瞬、僕はどんなことがあったとしても、瞬を嫌いになったりはしないよ」
頬を撫でている僕の手に瞬の手が重ねられる。
「…うん…覚はきっと、そう言ってくれるだろうって、心では分かってはいたけど、やっぱり、言い出すのが、怖かったんだ…。そしてどのタイミングで言おうかと、迷っているうちに、結局ここまできてしまっていた」
ふと、風が止み、静寂が訪れた。
瞬の透明感のある声だけが、辺りに響き渡る。
「…改めて言うよ。覚、本当に、あの時は、ごめん……僕は、君をずっと、心の底から愛していたよ」
ふわりと笑った目尻から、一粒の涙がこぼれて、僕たちの重ねている手の中に落ちた。