鏡の中の恋人 (6/11) | ねこむー
「…ここは、どこだ?」
「ちょっと、歩くよ。散歩だ」
もう自分じゃどうすることもできないことを悟ったのか、瞬の僕に対する不満も反論も、なくなった。
船着き場の近くには家が立ち並んでいるが、深夜のせいなのか、明かりはひとつも点いていなかった。
そもそも、人が住んでいるのかいないのか分からない程に、物音ひとつしなかった。
「もう秋口だから、夜は少し冷えるな」
「……そうだよ、覚。外出るのに、ちゃんと服着こんでこないから…」
「…そういう瞬は、寒くない?」
鏡の中に現れた時から、ずっと全人学級の夏の制服を着ている瞬に尋ねる。
その姿は、こちらからはとても寒そうに見えた。
まあ何故、瞬がその恰好で現れてたのかは、初めから何となく察しがついていた。
それは、僕の目に一番焼きついている瞬の格好が、それだったのもあるだろうし、僕が最後に瞬の姿を見たのも、学校だったからだろう。
「…僕は、だいじょうぶ」
瞬は静かに、そう答えた。
――暫く北へ歩いていく。
頬を撫でる夜の風が、気持ちよかった。
風が木々の間をすり抜けていく時に触れていった葉の擦る音と、歩いている自分の規則正しい足音と、夏の終わりを告げる、ヒグラシの鳴き声しか、聞こえてこなかった。
殺風景な風景に迷いそうになりながらも、ぽつぽつと瞬と言葉を交わして、小1時間程歩きつめた当たりで急に視界が開けていった。
すると、目の前に大きな湖が、現れた。
湖ではあるけれど、人工的に作られたような不思議な感じを醸し出している。そこかしこに朽ちた木が落ちていて、湖の真ん中には恐らく地面から突き刺さっているような木が水面に少しだけ顔を出していた。
湖をぐるっと囲むかのように八丁標が張られていた。
それも相まって全体的にとても異色な雰囲気をまとっている。
――まるで人が寄り付かないように思いが込められているような、そんな場所だった。
水面が月明かりに照らされて、キラキラと静かに波打っていた。
「……良かった、着いたよ…瞬」
鏡をとりあえず置き、話しかけた。
歩きっぱなしで呪力を使い続けたせいもあって、息が上がっていた。
「………ここは…」
瞬が辺りを見渡して言う。
「…分かるか、瞬。この場所」
膝に手を突き、少し屈んだ状態になって、息を整える。
そして横に並べた鏡の中の瞬の表情をちらりと盗み見た。
「…………」
どうやらこの場所がどこなのか分かっているらしく、酷く深刻な顔をして沈黙していた。
そんな瞬を横目に、鏡を再び浮かせ、注連縄をくぐって湖の淵まで移動した。
下を見ると、意外と水が張られているところまで距離があることに気づいた。
「………覚、」
「…何?」
「………どうして、僕をここに、連れてきたんだ」
再び横に並んで立っているため、瞬の表情を見ることはできない。
けれど、声は低く、心なしか怒りで震えているような感じだった。
「…もう、帰ろう。僕はここに、居たくない……」
なにかを思い出しているような、とても、悲しい声。
「…帰らない」
僕は真っ直ぐ湖を見つめ、言った。
「は……?」
困惑した瞬の声。
「…帰らない。もう、どこにも」
「…覚、なに言って」
「瞬、今から僕が言うことを、きちんと聞いてくれ」
瞬の顔は見えないけれど、すごく困っている様子が手に取るように分かる。
「…見ての通り、印象は変わってしまったけれど、ここは、君が幼いころから過ごしてきた、君の家があった場所だ。今は湖になってしまったけれど」
瞬は黙ったままだった。
ここが湖になった経路も知っていたが、今言う必要は、ないと思った。
「…本題に入る。僕は、あの日、無意識だったけれど、夢に出てきた君のことを思いながら鏡を作った。結果的に、僕の心の中にいた君を鏡の中に反映し、具現化することができた」
これも確証はないのだが、本人がそうだと言っているから、間違いはないんだと思って話を進める。
「そこでだ。君が鏡の中にいる時点で半分もう実体化していると、まず仮定するだろ?君は自由に話すこともできるしね。すると、鏡、僕の作ったこの今君が閉じ込められているその鏡は、元は空気中に含まれる微量な水分を集めて作ったものなんだ」
それは、当然知ってるだろ?と問いかけ反応を見てみる。
顔が見えないのでなんとも言えないが、表情一つ動かしていないようなそんな感じだった。
「…それで、ここには、この湖には、君の14年間の記録と思い出が沢山詰まっている場所であることには、間違いないだろう?ものとか形に残っているものはないけど、いくら景色が変わろうと、ここの空気から水、土、風、全てに君の魂の一部が刻み込まれているんじゃないかと、僕はそう、思ったんだ」
「…そんな、都合のいい話」
諦めにも似た嘲笑と共に吐き捨てられた言葉。
「…僕は、本気だよ、瞬。ここなら、水も十分にあるし、一旦呪力で鏡の結合を解いて、再び鏡を作る要領で、そこかしこに刻み込まれている君の魂の記憶を集めて取り込んで再構築すると、君は鏡から出てこれる。こんどは完全に実体できるんじゃないかって思ったんだ。一見馬鹿馬鹿しそうに思えるけど、やってみる価値は、あると思わないか?」
「…………」
自分でも、割と理にかなっている考えだと思っている。
実体できるかなんて、確証なんてものは、どこにもないのだけれど。
誰も実践したことがないから失敗するか、成功するかなんてそんな成功率も挙げられないわけだが。
それでも、僕はこの一縷の望みに託したかった。希望の全てを。
「…でも出来ないかもしれないじゃないか。その時はどうするんだ?もし、出来なかったら、もう、僕はこの湖に吸収されたままで、もう二度と、君に会うことはない」
確かに、その通りだった。
もう二度とこうして言葉を交わすことさえも許されない状況に自ら踏み入ろうとしてることに、違いはなかった。
でも、それでももう、良かった。
どっちにしろ、もう、残り少ない時間である。
「…瞬、怖いのか?」
「…そんなことを、言ってるんじゃない。君はそれでいいのかって、聞いているんだ。君が考え抜いて出した結論は、こんな成功する確証もないあやふやな方法だったのかって……、そんなの、慎重な君らしくない…」
僕がやろうと言って、反論を食らうことは、分かり切っていた。
でも、もう僕の決意は固まっていた。
「…瞬、君の意見は聞かない」
「……っ!」
「これが、…最後のわがままだからどうか、僕を、許してくれ…」
「…?覚、それ、どういう………えっ」
僕は淵のぎりぎりのところで、湖に背を向けた状態で鏡の正面に向き合った。
瞬の、驚きと不安が混じ入った顔を見つめ、その顔すら愛おしくてふっと微笑む。
鏡を抱きしめるように掴み、そっと鏡に口をつけた。
外の空気に触れていたせいで、いつもより余計冷たい感触を唇に残したまま、僕は重心を後ろに倒す。
異変に気づいた瞬が声を荒げる。
「覚!?何考えてっ……覚!!!」
――静かな辺り一面に、水に飛び入った激しい音だけが響き渡る。
そうして、僕と瞬は、湖の中に落ちていった。