鏡の中の恋人 (4/11) | ねこむー
瞬が鏡の中に現れてから、僕は仕事もある中できる限りの時間を取って、毎日、今までのこの12年間の空白の時間を埋めようと、お互いに歩み寄っていた。
だがそれもつかぬ間、僕はまた鬼のような仕事の量を抱えることになって、殆ど家に帰ってきてからは、少し瞬に今日あった出来事を簡単に話すくらいで、そのうち瞬の心地よい相槌で寝てしまっているのが、日常であった。
「覚…、最近また、忙しいみたいだね」
「んー、そう…だね。まあいつも通りさ」
「………」
僕は駆け足で仕事場から帰ってきたのだが、それは家にある大事な書類を探しに来ただけであって、またすぐ仕事場に持って行かなければならなかった。
再建中の仕事場は狭く、そこに収まりきらなかった書類を自宅に持ち帰っていた為、部屋中のそこかしこに何らかの書類が落ち散漫していた。
何がどこにあるのか自分でもさっぱりで、その中から目的の書類を探すのは、かなりの試練だった。
暫くがさごそとそこら中を散らかしながら探し回り、腰が痛くなってきた頃、やっとお目当ての書類を見つけた。
「…!あった…!」
はあはあと、何故か家にいるのに息を切らしていた。
瞬はというと、僕が帰ってきてからずっと、静かに僕の様子を伺っているようだった。
「…そう、良かったね。…ねえ、覚。ちょっと、聞いてほしいことがあるんだけど」
「え?何?また、今からこれを届けに行かないと、いけないから、また帰ってきてからでも、いいかな」
聞き分けのいい瞬のことだから、すぐに「分かった」と返事が返ってくると踏んでいた僕は、休む暇もなく喋りながら玄関先まで足を運んでいた。
…だが、なかなか返事が返ってこない。
おかしいなと思い、不安になった僕は、靴を脱いで足早に鏡が置いてあるところまで戻った。
「…瞬?」
鏡の中には俯いた瞬がいた。
「瞬、どうした?どこか、具合でも悪いの?」
一向に反応を見せない瞬に、急に焦りを覚え始めていた。
瞬に何かあったのかと思い、何をどうしようかと回らいない頭であれこれ考えていると、瞬がやっと口を開いた。
「…覚。やっぱり僕、ここにいない方がいいと思ったんだ」
「………え?」
突然、突きつけられた言葉は、何故、とか理由を聞く以前に、それはもう、相談事なんかではなく、はなから自分の意見を必要としていない、瞬が出した動かない結論そのものであった。
「もう、消えるよ」
「…!?ちょっと待ってくれ!いくらなんでも急過ぎるだろ?せめて、事情くらい、聞かせてくれないか?」
急ぎ早で反論する。
瞬は俯いて押し黙ったままだった。
「さっきの態度なら謝るよ、ごめん。ここから動けない君に、もっと気を使うべきだった」
「…そんなこと、別に気にしてない」
「じゃあ、なに?何で消えようとするの?僕の何かが気に食わなかった?それとも、もう一緒にいるの、…嫌になった…?」
最悪のパターンが頭を駆け巡った。
心臓を脈打つ音が、直接耳に聞こえてくるようだった。
「そうじゃないんだ、覚」
「……じゃあ…、なに……」
もう何も思いつかなくなった僕は、とうとう絶句した。
自分でも必死に、瞬に食い下がっているのが分かった。
26歳の大人が14歳の少年に必死になっているなんて、聞いて呆れる。
でも今僕は、例えようのない不安が体中を駆け巡り、ひどい頭痛がしていた。
――昔同じようなことがあったことを思い出す。
…あの、一方的に突き放されるような感覚、もう、何を言っても、瞬の心が動くことはないんだと、否応なしに経験が物語っていた。
12年前の、あの出来事が、もう思い出したくもないのに頭の中で再生される。
瞬の冷たい微笑みと、あの言葉がずっと頭の中をぐるぐると回って、吐き気がした。
『悪かった?何が?』
『覚。恋愛ごっこは、もういいだろう?』
『今日からはお互い別行動にしよう。じゃあな』
まざまざとトラウマが蘇る。
瞬はこうなったらもうだめだ。
隙いる余地がまるでなくなるのだ。
顔に似合わず意外と頑固者だったなと、そんな今はどうでもいいようなことをふと思い返して、現実逃避しようとしていた。
僕はあれから何度も、どうしてあの時、瞬のことをもっと理解してやることができなかったんだろうと、ずっと悔やんでいた。
本当は、瞬は誰かに相談して、助けてほしかったはずだ。
一人であんな大きな問題を背負い込むなんて、14歳の少年にはとても無理だ。
僕は、そんな瞬の助けてほしいという、小さなサインさえも見逃していたんだと、そのことをずっと悔いて生きてきた。
一番一緒にいた僕しかそんなこと、気づけなかったのに。
僕が、気づくべきだったのに…
そんな後悔ばかりが渦巻く中で、僕はあれから、その抱えきれない後悔を糧にして、種類を問わず、必死でとりあえず色んなことを吸収して、勉強に励んできた。
そのうち、瞬の壮絶な悲しみも、怒りも、沢山のことを知った。
そうして、僕は大人になった。
そこまで考えて、ふと気づく。
――そう、僕はもう、大人になったのだ。
今はもう、14歳の子供じゃない。
…いずれ瞬がこう言うこともなんとなく予想がついていたし、反論する言葉も、知識も、今の僕にはあった。
あの情けなかった自分は、当の昔に葬り去ったのだ。
…今度こそは絶対に、絶対に独りで行かせたりしない。
僕は強い決意のもと、トラウマを降服しようと自分を奮い立たせた。
「…瞬、今の君の気持を、僕に、聞かせてくれないか?」
「……」
「瞬、言ったよな。気持ちを伝えられなかったことを、後悔したって」
「…それは、………」
「今また、思ってることを言わなかったら、後で後悔したりしない?僕は、瞬が今思ってること、分かりきってることでも、当たり前なことでも何でも、直接瞬の口から、瞬の言葉で聞きたいんだ」
「………」
瞬は、何かを考えているようだったが、固く口を閉ざしたままだった。
僕は、そっと鏡ごと抱きしめて言った。
「…瞬、僕は、君とまた会えて、本当に嬉しいんだ。でも今はまだこの嬉しさを表現する術をこの状況に対して持ち合わせていなくて、どうやったら瞬に伝えられるかなって、毎日探っている。色んな話をしたり、何気ない会話なんかもすごく嬉しい。ただ毎日、瞬がここにいることに安心している」
僕は瞬の反応は見えなかったが、続けて喋る。
「…僕ってすごく単純で、いつも同じことしか言えないけどね、でも、少しでも僕の考えていることとか、思いが、君に届けばいいなって思ってる。君に触れられない分、すごくもどかしくて、今まで触れ合うことでしか君に僕の愛を伝えられてなかったんだって、改めて気づかされた。今は、特殊な状況下だけど、触れ合うことができなくても、ずっと昔から、僕の想いは変わってないよ、瞬」
鏡を抱きしめながら、この熱も一緒に届いたらいいのと願った。
「…伝わってるよ…覚。ほんとに、…十分なくらい。昔も今も」
きっと、少し呆れたように笑っているんだろうなって思って、鏡から体を離して瞬の顔を見る。
瞬は、伏し目がちに微笑んでいた。
「ごめん覚…。僕はあれから何にも変わっていない子供だったね。君は、こんなにも成長していたというのに。いつだって僕は…」
「瞬は、何も変わらなくていいよ」
「…覚、僕はね、いつだって一番に君のこと考えているつもりだった」
「…うん、瞬ならそうするって、分かっていたよ。…ありがとう」
「でも、そんなこと言っておいて結局自分が楽になりたいだけだったんだよ」
普段から聞き手に回る瞬が、自らこんなにはっきり自分の気持ちを言ってくれることが珍しくて、そして嬉しかった。
「…最近覚、前より一層忙しくなったよね。僕のせいだと自覚はあるよ」
「こんなの、屁でもないさ」
「でも、今はこの町の重要な時期で、皆が皆、お互い手を取り合って、今までより一層団結してやっていかなければならないし、覚はその中心にいて、皆から頼られていることも重々分かっているんだ」
「…瞬?」
「分かっては、いる……でも、でも…僕は、どうやったって、そこに関わることはないし、君と違って、誰からも必要とされていない存在であったことには変わらない。…この世界とはもう、何の関係もないんだ…」
苦痛の表情を浮かべながら、僕と目を合わすことはなく、瞬は喋り続けた。
「…僕は、僕には、もう君しかいない…。僕のこの世界には、君しかいないんだ…。僕が、もうここに現れてしまった以上、僕には君が全てなんだ…。君が、忙しくなる度、君が町から必要とされる度に、僕は、呪ってしまう…自分の運命と、君を取り巻く、全てのものを」
「…瞬……」
「君のためとか都合いいこと言って、本当は全てに嫉妬している。そして、この暗い気持ちから逃れたくて、君の幸せを考えるフリして、もう、いっそ消えてしまおうって…そう、思ったんだ…」
瞬は哀しい笑みを作っては、「僕って結構酷いやつだろ?」なんて口走る。
正直、瞬が今話してくれた、瞬の考えていたことの半分は、自分が予想だにしなかったことで、驚きを隠せないでいる。
でも、嫌悪なんて、抱くはずもなかった。
この鏡の中にいる瞬も、ちゃんと考えていて、鏡同様に無機質なものじゃなかったんだと、僕は逆に変な安堵を覚えていた。
「…なんでちょっと、笑ってるんだよ、覚」
鏡を見ると、むすっとした、いかにも機嫌を損ねた子供のような顔があった。
その顔が更に可愛くて、僕はまた笑ってしまった。
「ちょっと覚!…今、僕のこと子供だなあって思ったんだろ?…正直に言えよ」
真剣な話の最中だったのに、不思議と空気も軽くなって、それがなんだか可笑しくて、こんな風に、また昔みたいにぶつかり合って、何となく解決して、それがなんとも言えない幸せになった。
「…笑ってごめん、瞬。でも、嬉しいんだ僕は。瞬がそんな風に、僕のこと考えて想っていてくれてたなんて」
「言っておくけど、僕は真剣なんだからな」
「分かってるよ、ほんとにもう…」
可愛くてつい、頭を撫でようとして手を伸ばしたら、指が予期しなかった固い板に当たってぐにゃりと曲がった。
触れることができないと頭ではわかっていたのに、改めて現実を突き付けられたような気がして、悔しくて、阻まれた右手を下げ、ぐっと握りしめた。
「……瞬。今度は僕の話を、真剣に聞いてくれるか?」
瞬が、僕に思いをきちんと話してくれた。
もう、お互い何かを隠す必要なんて、どこにもない。
――次は、僕の番だ。