鏡の中の恋人 (3/11) | ねこむー
――そして、先程述べた現状に至るのだ。
僕は、自分の行動を少し振り返ってみたのだが、未だに鏡の中に何故瞬が映っているのかは、全く理解ができていないままだった。
もしかしてこれは鏡ではなく、ガラスみたいなものを作ってしまって、そこに僕の記憶にある瞬の姿が無意識に反映されてしまっていて、昔でいう、“動画”みたいなものを作りだしてしまったのかもしれない、と思ったりもしたのだが、次の瞬間にその考えは見事に打ち砕かれたのであった。
「覚」
目の前に現れた、全人学級の夏の制服を着た、14歳の風貌をした瞬は、動き、そして僕に喋りかけてきたのだ。
さらに僕は混乱に陥る。しかし、それと同時に訳が分からない喜びに全身が震えていた。
多分、今の僕は、口がぱくぱくと、地上で息のできない魚のように動いていたに違いない。
何も言えずに間抜けたそんな様子の僕を、暫くじっと見ていた瞬は、ふっと少し眉を下げ、困ったように笑う。
「覚はやっぱり、馬鹿だなあ」
とても、優しい声だった。
散々聴き慣れていたはずの懐かしい声は、いつもはスッと身体に溶け込んでいたはずなのに、今は身体中がその声を渇望するように血が騒ぎ眩暈がした。
そして何回も、何回も言われてきたはずの台詞なのに、胸が一瞬にして当時の熱さを取り戻す。
――何故、僕は忘れていたんだろう。
いつもそう言って僕にだけ向けてくれていた、呆れたような、でも心なしか嬉しそうにする、瞬の一番大好きな微笑みを…
「…っ、瞬、どうして……、」
水の中にいたわけでもないのに、やっと息継ぎができたように口が動きだし、瞬に話しかけようとした矢先のことだった。
瞬の全てを懐かしむ間もなく、僕の大好きなその微笑みは形崩れ、口は下を向き、瞳は海のようにきらきらと煌めいてその雫を目の淵に溜めていた。
今までに経験したことないその異常事態に僕は更に混乱した。
しかし、瞬が泣いているにも関わらず、その綺麗な瞳に見とれてしまって、なにか声をかけようと思っていたことも忘れ、再び喉が詰まって生唾を飲む音だけが静かに響いたような気がした。
そして暫く、お互い何も言葉を交わすことはなかった。
ただ、二人で、二人だけの不思議な異空間に漂っている気分であった。
その沈黙を破ったのは、落ち着きを取り戻した瞬だった。
「…覚、やっと、会えたね」
ふわりと、瞬が笑う。
「…瞬、君は……」
「…僕はね、覚」
自分の名前を呼び、語りかけてくる優しい声と、形の良い唇に目を奪われた。
「僕は、ずっと君の中に居たんだよ。僕が肉体を無くした、その日から。…僕の魂の一部は、君の中に刻み込まれていたんだ」
瞬が言っていることは、何となく理解ができた。
「……うん。でも、どうして今、…こんなことに?」
瞬は自分の胸に手を当て、俯き何かを愛おしむように微笑んでいる。
「…僕も、全く予期していなかったよ。ここに…鏡の中に、現れてしまった現象については、僕も、確かなことは言えないけど」
瞬はそう言って、自分がいる鏡の中の空間を見渡した。
「君の中でずっと燻って、蓄積されていた僕への思いは、君の中にいた僕へと常に流れ込んできていたよ。…そして、君があんまりにも僕を思ってくれるから、僕は君の中でどんどん確立されていって、大きくなっていったんだ」
そう…僕は来る日も来る日も、記憶操作されたにも関わらず、瞬との記憶を何とか思い出しては、物思いに耽っていた。
瞬は顎に手を当てて、考え込むような形で喋っていた。
「…それで、多分、だけどね。さっき、君は僕のことを思いながら、呪力を使っただろう?封印されていた僕との記憶を、完全に思い出すことができた君は、明確なイメージを持たなくとも、呪力で作った鏡に、無意識に“会いたい”といった思いが反映されてしまって、結果、君の中に居た僕が、鏡の中に移動した、みたいなところかな…簡単に言えば」
成る程、流石瞬!と言ったところだ。
そういえば瞬は、理論立てて説明するのが昔から上手かったな、と思い出す。
「その中は、どういう風に、なっているんだ?」
不思議な鏡を見て、僕は問いかけた。
「うーん、なんか、狭い箱のような空間に窓がついていて、そこからそっちの世界が見えている、そんな感じかな」
こちらから見ると、鏡は、ちゃんと鏡の役割を果たしていた。
瞬の後ろには、瞬と被って殆ど見えないが、たまに瞬が動いたときに、自分の髪や手などがちらりと写るし、僕の後ろの様子もしっかりと映っていた。
ただ、イレギュラーな存在の瞬だけが、本当に鏡の中に入り込んでしまったような、そんな感じだった。
「鏡、固めようか」
まだ鏡は、形を保つために、僕が微量の呪力を使っている状態だった。
「…そうだね、とりあえず君も疲れるだろうし」
僕はもう少し鏡を大きくして、ちょうど瞬の体が全部収まるくらいの、等身大のサイズにした。
そして、鏡を構成する成分を、一つ一つ、凝固させるイメージを持って、鏡を完璧に作っていった。
その間、瞬がありがとうと言いながら、僕に話しかけた。
「…覚、僕は、君に伝えたいことが沢山、沢山あるんだ」
「僕もだよ…、瞬」
「…だけど、こうして顔を合わせると途端に言葉が出てこなくなってしまう」
「……」
僕は、呪力を使いながら、瞬の声に耳だけ傾けて、静かに話を聞いていた。
「今までも、伝えたいことは山ほどあったのに、なんか言葉にするのが恥ずかしくて、君に甘えて、きちんと伝えてこなかったんだ…」
「瞬…」
「あんなにも君は、僕に、言葉にして、沢山のことを伝えてくれていたのにね。…後からすごく後悔したんだ。だから、僕は君の中で、何度も何度も君に話しかけた。…でも、君に僕の声は届かなかった。そうして初めて、気持ちを言葉にして伝えられることの重みを知ったんだよ…すごく情けない話だろ?」
自嘲するような笑みを浮かべて瞬は言った。
「…瞬、そんなことないよ。ゆっくりでいいよ。…僕だって今、瞬に何から話したらいいのか、まだ分からないでいるから」
瞬の顔を見た。
なんだかお互い気恥ずかしくなって、笑い合う。
また再びこうやって顔を合わせて、笑い合える日が来るなんて、夢のまた夢のような出来事だった。
「……なあ、瞬。キス、してもいい?」
僕のこの一言で瞬は笑うのを止め、少し驚いた顔をして、頬を軽く赤く染めた。
「……キス、って、覚、どうやって?」
再びくすくすと瞬が笑う。
いつもの僕の冗談のようにとったのか、とても楽しそうに笑う瞬を見て、懐かしい愛しさが込み上げてくる。
どうやってキスをするかなんて、もう考えるより前に、体が自然と動いていた。
固め終わった鏡に、手を触れる。
瞬が、僕の手に自分の手を重ねた。
瞬の手は、僕の手よりうんと小さかった。
――瞬の時間は、14歳で止まっている。
ふと、そんなことが頭をよぎったが、今はもう、唇を重ねたいという気持ちの方が大きくて、目の前の瞬の唇に目を奪われていた。
…手を鏡に置いて、唇をつける様は、傍から見たら、なんとも奇妙な光景だっただろう。
でも、幸いここには、僕と瞬しかいなかった。
鏡なのに、自分の顔が映らない不思議な感覚を味わいながら、瞬と唇を交わす。
唇にひんやりとした無機質な感触が伝わった。
暫くして、お互いに唇を離した。
吸い込まれそうな翡翠の色をした瞳と視線が交錯し、そして意味もなく笑う。
「……冷たいね」
そう、瞬が微笑みながら言った。