2.


――12年前。

業魔と化し、すばるを失った僕は早季の目の前で自分の呪力の暴走によって命を落とした――と思っていた。
まさかしばらくして目が覚めるなんて誰が思うだろうか。
深海の中を漂うような感覚から一転、何かが触れた感触で意識が浮上した。
ぼんやりと開けた僕の視界に映ったのは見知らぬ湖のほとりで、隣には死んでしまったはずのすばるが心配そうに覗き込んでいたから、てっきりここは天国なのだと思ったほどだ。
触れたと思った何かは、どうやらすばるが僕の頬を舐めたかららしい。
恐る恐る触れてみた身体は温かく、間違いなく幼い頃から一緒に育ってきたすばるだった。

「良かった・・・すばる・・・っ」
僕の呪力のせいで異形と化し、僕を守るために死んでしまった大切な家族。
これが夢だとしても良い。
また会えた嬉しさに僕の頬を一筋の涙が伝った。


「僕は・・・生きてるのか?」
風や水の匂いもちゃんと感じるし鳥の囀りさえ耳に届いてきた。
呪力は相変わらず暴走していたけれど、この場所は僕の呪力の干渉を受けないらしく、どんなに呪力が漏れ出しても足元の草木一つさえ何の変化も遂げはしなかった。
何もかもが普通で穏やかで、少し不思議な風景。

「ここはどこなんだ・・・」
不安気に呟いた声に、すばるが鼻を鳴らして手に擦り寄ってきた。
「慰めてくれるのか?ありがとう」
すばるを抱きかかえて、そのぬくもりを確かめる。
一度は失った、けれど今一度僕のもとに帰ってきてくれた。
すばるがいる、それだけで充分だ。


しばらくして分かったことだが、この場所は僕の呪力の影響を受けない代わりに、僕がこの場所から出ることも出来なかった。
どれだけ歩いてもどれだけ進んでも果ての無い不可思議で綺麗な風景。
ゆっくりと流れる時間は穏やかで昼は澄んだ青空が、夜は満天の星空が時間の流れを教えてくれるから、切り離された異空間ではないらしい。



美しく平和で――――孤独。



たった一人と一匹。
呪力の暴走は他者に影響しないが、呪力が使えないわけでもない。
生活するには何一つ困らなかったが、毎日毎日変わり映えのない日常は、最初こそ生きている事に感謝すれど、時間が経つに連れて全ての感覚が麻痺していった。
すばるのおかげで温もりはあるけれど、会話にはならない。
独り言は段々少なくなり、やがては声すら出さない日が続いた。

早季は無事に帰れたのか、不浄猫の話を聞いて守と真理亜は恐怖を感じていないか―――――覚は、僕の死に傷付いていないか。
何度も何度も同じ事を考えては、何も出来ない自分に落胆して、また考える。
頭がおかしくなりそうだった。




一人は嫌だ

一人は怖い

誰でも良いからここへ来て


僕を一人にしないでくれ・・・





僕は自分がもっと強い人間だと思っていた。
ゆっくりゆっくり心が真っ黒に染められ精神がおかしくなりそうな恐怖に、たった一度だけ自らに手をかけた事がある。
だが流れ出した血は、あっという間に止まり何事もなかったように傷は消えた。

死ぬ事さえ許されないなんて、それほど業魔と化した僕は罪深いのか?
「・・はは・・っ、ははは・・・」


――もう、狂いそうだ。







それからどれくらい経っただろう。

何かがおかしいと思ったのはこの場所で目覚めて2か月程経った頃。
お腹に違和感があった。
痛いわけではないが、何か入っている感じがするし胃がムカムカして吐き気がする上にダルい。
何か変なものを食べただろうか。
けれど同じものを食べているはずのすばるは元気にピンピンして走り回っている。
「・・・風邪?」
業魔の僕が?
まさかなと笑い、体調不良に効く薬草でも集めようと立ち上がった僕の脳裏に一つの可能性が頭を過ぎた。


吐き気とダルさ、そして―――性交渉
そのキーワードが導き出す答えに、踏み出そうとした僕の足が止まった。

…確かに身に覚えは、ある。
呪力の暴走による業魔化に気付いた直後、覚と別れる決心をして、これが最後と初めて自分から求めたのが2ヶ月ほど前。
計算はぴったり合う。
だけどそもそも僕は女の子じゃない…妊娠なんてするわけがなかった。
あまりの馬鹿馬鹿しさに思わず自分で失笑したくらいだ。


が、事態は予想外というか予測通りに進んでいた。


僕は男なのに、本当に妊娠していたのだ。
これも呪力の暴走なのだろうか、無意識のうちに僕が望んでいた想いの力が形になったのだろうか。
だとしたら想像妊娠?
所詮男の僕に子供なんて出来るはずが無い。
心の奥深くで覚を求めていた僕の想像の産物なんだろう、そう簡単に考えていた僕の身体には、だが確かに命が宿っていた。

まだあまり目立たない薄い腹にそっと手を当ててみる。
見た目にはあまり変化は感じられないけど、覚がくれた愛情が、二人が愛し合った証拠がここに命が宿っていると何故だか確信がもてた。
「・・・本当に僕が・・・・?」
呪力を使ってお腹に触れてみればトクトクトクとやや早めの鼓動が掌を通して伝わってくる。


ここに本当に新たな命が、

覚の子が・・・



「・・・ふ・・・っ」
その事実に嬉しくて嬉しくて僕は声を上げて泣いた。
僕はもう一人じゃない。
死ぬことも出来ない、気が狂いそうな途方もなく孤独で長い時間に怯える事はないんだ。
この子がいてくれれば何でもできる、どんな恐怖だって乗り越えられる、そう思った。


それから数ヵ月後。
一人での未知の出産も呪力のおかげで何とか乗り切り、今、僕の腕の中には生まれたての赤ん坊がすやすやと眠っている。
業魔化してしまった事により一度は呪った呪力の存在を、僕今は改めて感謝している。
出産の知識は乏しかったけれど衣食住、何をするにも特に苦労はしなかったし、すばるとこの子がいれば怖いものなんてなかった。
腕の中で眠る赤子が小さくあくびをし、優しい赤みを帯びた色の瞳で僕を見上げる。
業魔に堕ち死を覚悟した僕が、今もまだ生に縋りつき、有り得ない事に子まで成すなんてどれほどの幸福だろうか。
もう二度と大切な人を失いたくない、絶対にこの子だけは守ってみせる。


でも。

たった一つ願いが叶うなら、覚にこの子を会わせてあげたかった。