今ひとたびの奇跡を・・・

※ 一部、特殊設定あり


1.


暗闇に支配されていた空が徐々に白み始め、太陽が空に昇り朝を迎える。神栖66町に静かな1日が始まった。
多大な犠牲を出した町はたくさんの傷をあちこちに残して前へ進んでいく。

前へ、進まなければならない。


眩しいくらいに大地を照らす光に目を細めて、俺は気を抜けばすぐにでも過去へ戻ってしまう心と戦っていた。
目を閉じれば、忘れていたのが嘘のように子供の頃の記憶が色鮮やかに脳裏に蘇る。
失っていた大切で愛しい記憶。
Xの、瞬の。
まるで昨日のように、子供だった俺が感じていた気持ちそのまま、音も匂いも――温もりさえも鮮明に。


瞬の存在は今もまだこんなにも深く俺の全身に刻まれているのに、どうして記憶操作に抗えなかったのだろう。
あんなに大事な時間を、恥ずかしいくらい真っ直ぐだった気持ちを、愛しい人を―――忘れていたなんて。
誰より愛していた彼の笑顔を思い出すたびに、胸が張り裂ける様に痛んだ。

「私の中に、瞬はいてくれたのよ」
瞳を潤ませて嬉しそうに話す早季の話を、上辺だけは冷静に聞いていたと思う。
短い14年の生涯を、業魔と化してしまったことによって閉じたのだと。
そして身体を失ってもなお、悪鬼との交戦中、瞬が幾度となく助けてくれた事も。

まだ幼かった頃から瞬が早季を気にしていたこと位、さすがの俺だってなんとなく感じていた。
最期を見届けたのも早季だ、瞬が彼女の内にだけ自分の欠片を残していても不思議に感じたりはしないけれど、嫉妬をせずにはいられなかった。

付き合っていた頃だって、瞬から「好き」と言われた事はない。
もちろん俺が言ってくれと頼めば、困ったように笑って言葉にしてくれた事は何度かあるけれど、決して自分からではなかった。
キスをしても嫌がる事はなく、むしろ積極的だったから嫌われてはいなかったろうが、結局は幼馴染の延長でしかなかったのかもしれない。
その事実に気付いてたくせに、知らない振りをしていたのは俺。
浮かれていたのは俺だけで、瞬にとっては『恋愛ごっこ』。
分かってる。
あの頃も、そしてきっと今でも瞬が好きなのは『早季』だという事くらい。

残酷な真実を、大人となった今、頭では、理性では理解している。
だが感情は全くついていかなかった。
早希のおかげで記憶の全て取り戻したけれど、胸の中はいまだに瞬への想いで燻っていた。
12年という長い年月を経て取り戻した感情は、切ないほど激しさを増して・・・。


けれど現実に向き合い、彼を大切な思い出として心に仕舞わなければ、前に進めるはずがないと分かっていても、どうしても踏ん切る事が出来なかった。
おそらく、瞬がもういないという事実を俺自身が心のどこかで受け入れられないからだろう。



会いたい。
瞬に会いたい。
会って抱き締めて、溢れそうなこの想いをもう一度伝えたかった。

ただそれだけの願いが叶わない事は嫌というほどわかっているけれど。




俺と早季の記憶以外、神栖66町のどこにも瞬が生きていた証は残っていなかった。
瞬の家も両親も失われ、他の人間の記憶や記録は改竄されている今、どれだけ過去に遡っても『青沼瞬』は存在しない。
抹消された、瞬の存在。
「ちっくしょう・・・っ」
業魔化したから?
ただそれだけで?
瞬は全てを失い、命まで落としたというのに、大人たちの都合で他人の記憶からも削除するなど許されるのか?
許せるはずないだろう。
愛しい人を亡くしたこの痛みをどうすれば良いのか、この遣る瀬無さをどうすれば良いのか。


ずっと一緒にいたのに、あんなにそばにいたのに、瞬の苦しみに気付けなかった自分が愚かしい。
俺は一体瞬の何を見ていたんだ?
好きで好きで仕方なくて、気持ちを受け入れてもらえて、側にいられる事に舞い上がってばかりいた俺は本当に子供だった。
どれほど悩んで苦しんで、誰より優しい瞬がわざと憎まれるような言葉で俺を切り捨てたのか、その気持ちを考えると涙が止まらない。
なのに俺はフられたとばかり勝手に思い込んで、違う子との関係を見せ付けるような真似をしたり…どれだけ瞬を傷つけてしまったんだろう。
悔やんでも悔やみきれない、後悔の渦に巻き込まれそうになる心を唇を噛み締めることで耐えるけれど、行き場のない思いはどうすれば良い?
だって瞬はもう…いないんだ。
全て抱えて、一人で逝ってしまったのに。
俺はどうして今もここにいるんだろう。


俺も一緒に逝きたかった・・・


そんな考えさえ頭を過ぎるほど、この時の俺は冷静さに欠けていたのだろう。
静まり返った早朝、まるで何かに取り付かれたかのように1人、全人学級や丘の上、2人で歩いた運河沿いを無意識のうちにさ迷い歩く。
長い年月で少しずつ変わっていった神栖66町は、あの頃と全く同じ面影を残してなどいない。
思い出の場所はもう記憶にしかなくて、何もかも失われた辛さを手近にあった木に殴りつける。
「・・・っ」
だが拳から血が出ようとも、痛みなど感じない。
痛いのは、血が止め処なく溢れて止まらないのは、俺の心なのだから。



「瞬・・っ、瞬しゅん・・・」
悔しくて悲しくて切なくて、胸が軋むように痛む。
瞬の笑顔も瞬の声も、まるで昨日の事のように今でも鮮明に思い出せるのに。
瞬は俺の全てなのに――

「返せよ、・・・返してくれよ・・・っ」

もし奇跡がおこるなら、ただもう一度だけ瞬に会いたい。






『・・・る、・・・・覚』


どれくら時間が経っていただろうか。
運河沿いでぼんやりと過去に記憶を飛ばしていた俺の耳に、かすかに届く声のような音。
「・・・瞬・・」
幻聴なのだろう、けれど耳ではなく心にはっきりと聞こえてくる。
瞬を求めすぎた俺の呪力が成した想いの力かな、なんて自嘲気味に笑ってみるけれど、やはりまた愛しい声に名前を呼ばれた気がして、気付くと朽木の郷――本来は松風の郷と呼ばれていた――場所まで来ていた。
今もまだ八丁標に閉ざされたここは瞬が生まれ育ち、瞬の呪力によって消えた郷。
手入れされることなく長い年月が過ぎて荒涼とした大地は、瞬の呪力の凄まじさを物語っていた。
業魔としての瞬の力。
全てにおいて優秀すぎた瞬の無意識下の力。



・・・あぁ、
なんだここにあったじゃないか、瞬が生きた証が・・・
この大地に残った凄まじい呪力の爪跡こそ瞬が最期に残した、瞬の――――



俺は胸が詰まり、激しく隆起した地層をそっと撫でた。
瞬がこの世界に刻み残した、彼の証。とても愛しくてたまらなかった。
恐ろしい存在なのだと幼い頃から信じ込まされた業魔も瞬ならば恐ろしいはずがない。
松風の郷の異様な光景だって俺には、まるで瞬に包まれているような安心感さえ与えてくれた。



『覚・・・』

「瞬、・・・?」
また聞こえた幻聴に俺は辺りを見回すけれど、ここには生物は存在していない。
瞬は死んだんだ、いるわけがない。
そんな事、頭の片隅では分かっているけれど何故か瞬に呼ばれている気がして、俺は迷うことなく縄をくぐった。


昼間なのに薄暗い森を抜けると、しばらくして不可思議な色をした湖のほとりに辿り着く。
「どこだ、ここ・・」
優しい風。
柔らかい草の感触。
心地よい鳥の囀り。
静かな水の音。
記憶にある松風の郷とは全く違う風景に眉を寄せるけれど、危険な感じは全くせず、むしろどこか優しい気配が感じられて警戒心は持たなかった。
七色に光る水面をぼんやりと見ていた俺の耳に、今度はどこからか風に乗って幼い歌声が聞こえてくる。

「〜〜〜〜♪」
子供の…声?

ここは長年放置された場所だし、この町の人間なら子供であろうと八丁標を越えてはいけない事を知らないはずがない。
だが声は確かに聞こえてくる。
「この歌・・・」
かすかに聞こえたのは昔、和貴園で覚えた歌。
ずっと忘れていた懐かしい旋律。
何も知らず、ただただ幸せだった頃を思い出させる歌声に俺の足はゆっくりと声の方へと歩き出した。
開けた場所に出ると視線の先に、湖に突き出した木の枝に座り、ぶらぶらさせた足で水を蹴りながら歌う子供の姿があった。

年の頃は10を少し過ぎたくらいか。白装束を着て、こちらに向けた背中は昔見た愛しい姿に被り、思わず目を瞠る。
まるで彼がそこにいるように感じて、胸が締め付けられるように痛んだ。
「・・・瞬…」
震える声で零れ落ちた愛しい名前に、子供が振り返り―――視線が絡む。

子供は少年で、こんな場所に人がいるとは思わなかったのだろう、驚き見開いた瞳は、だがすぐにふわりと微笑んだ。
「…っ」
その笑顔が幼い頃の瞬にまるで瓜二つで、思わず手をのばしかけた俺に少年はいたずらっぽく笑うと、木の枝から飛び降りて呪力を使うと、湖を軽やかに走り渡ってしまった。

「待ってくれ!」

慌てて後を追いかけるけど、少年は遊ぶように身を翻し、なかなか追い付けない。
彼が走るたびに草木が揺れ、風を切る音がするから幻ではないだろう。
遠目では顔立ちまでは良くわからないが、黒髪を靡かせた背格好や雰囲気は12歳の頃の瞬そっくりだ。
他人の空似にしては似すぎているけれど、瞬にこんな歳の離れた兄弟はいなかったはず。


なら、この子は一体誰だ…?
なんでこんな場所にいる?


どれくらい走っただろうか、気付いたら少年が足を止めこちらに背を向けていた。
いつの間にか一件の小さな家にたどり着いていたらしい。
まるで誘うように一度だけ振り向くと、ごく自然な動作でその家の中に入っていってしまった。
「こんな所に家?」
風景は先程の湖のほとりと変わらない、どこか不思議な感じがする森の中だ。
小ぢんまりとしているが綺麗に使われている外観に、おそらくここが少年の家なのだろうと悟った。
「入れ、って事だよな」
他人の家に無断で入るのも躊躇われたが、ここまできて引き返すわけにもいかないし何より瞬に似た少年の正体が知りたかった。
「悩んでても仕方ない、行くか」
数度のノックの後、お邪魔しますと声をかけて引き戸を開けるが、扉の先には誰もいない。
一歩足を踏み入れると、どうやら暮らしている形跡があり、部屋の中は小奇麗に片付いていた。
「こんな場所に・・・誰が住んでるっていうんだよ」
八丁標の外だ。少年が一人で住んでいるはずないよな、と考え込んでいると居間のような場所の先にある扉が少し開いていて、かすかな話声が聞こえてきた。



少年らしき声と、大人の男の声。
記憶にある愛しい声に似た、けれどそれよりも少し低い声。

「―――え?」

その瞬間、俺の心臓が痛いくらいに早い鼓動を打ちはじめる。

まさか、いやでも、そんなはずはない…



だけど。



希望と願望と諦めとで震える手が開けた扉の先には―――